主に愛されて

寄稿者(鹿児島教会員M・H)


 私の一日は「主よ、僕を全くあなたのものとしてお受け入れください。私のすべての計画をあなたの御前におきます。どうか、僕を今日も御用の為にお用い下さい。どうか、私と共にいまし給うて、すべてのことをあなたにあってなさせて下さい」のお祈りで始まります。


 病に倒れ何も出来ない価値のない私、無意味に思える日々、何か空虚しく、何か悲しく、何か寂しい、不安な毎日でしたが、体調が良くない中でも夜の祈祷会に参加しているとき、このお祈りが与えられました。

 そして毎日、このお祈りをしているうちに、私の心は「主にある平安」に満たされ、私の心から不安がなくなっていきました。これは人間の業では出来ないことだと思います。


 私は自分で「生きている」と思っていたから苦しかったのですが、逆に「生かされているのだ」と思えたら肉の私は存在しなくなったのです。


 私が病に倒れた時、牧師さんより手紙を頂きました。

「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し」イザヤ43:4

と聖句が書かれていました。何も出来なくなった私にとってこんな私が何で貴いのかと反発すら覚え一層悲しくなったのを覚えています。


 それは私の思いの中に才能があり何でも出来る人は神様を喜ばせられるのに、それに比べ何も出来ない私は全く価値のない存在に思えたのです。


 でもこのお祈りを続けるうちに私の心は喜びと主にある平安に満たされ「神様を喜ぶ」私に変わっていたのです。そしてどんな事もすべて神様のお許しの中、み手の中にあってなされていて、その行動に価値の上下はなく、主の目からみた時、あわれみによって救われた私達はみな価高く貴いのだとわかりました。感謝です。


 渡辺和子氏が「世の中に雑用はない。用を雑にする時、雑用が生まれる」と言われましたが、何事をするにも主に祈りつつ私と共にいまし給うてすべてのことを、あなたにあってなさせて下さいとなす時に、すでに肉の私は存在していないことに気がついたのです。


 主に許されて受け入れてくださった、あわれみ深い主に感謝するのみの私です。